地をはう大学院生→ポスドク→国立大特任教員→私大専任教員

はてなダイアリーから引っ越ししてきました。昔の記録です。

公募戦線2回戦

この4月から私立大学で専任講師になりました。ようやく定年まで居られて、独立して研究できる立場を得ることができました。学位を取って4年で専任講師、国内の業界では最速ペースでしょうか…(業界が少し異なればもっと速い人もいますが…)。これには教育重視のポジションでも研究を続けていけるという、私の研究手法の特性ゆえにできた芸当でもあります。なにはともあれ、やってきたところは伝統のある大学で、なかなか過ごしやすいところです。
基礎科学の研究者が人生を賭けて築いてきた研究とキャリアを評価されてポストを得ることは、一般の人たちにとっての何に相当するでしょうか。企業を起こしたビジネスマンにとってみたら、築き上げてきたビジネスを評価されて、会社が上場するようなものでしょうか。政治家志望の人にとってみたら、苦心の末、ようやく議席を得て国会に初登院するようなものでしょうか。もちろん、学者には上場企業のオーナーさんのような財力もなければ、議員さんのような権力もないですが…。ひとまずは、年齢的にも、学者キャリアのなかでの重要さからいっても、ちょうどそれくらいの段階といっていいでしょう。(研究者を目指すことで背負う人生の諸々の側面、キャリア、金銭面でのリスクを考えると、これらの職業とはかなり似ているようにも思えます)。これで、自分が築いてきた研究をこれからも続けていくことができます。もちろん、過労死したりしなければ、ですが。3月までは独立した立場ではありましたが、任期付きの特任教員でしたから、不安定さがぬぐえませんでした。これでようやく、大きな一歩を歩めました。ビジネスマンに例えた話ですと、今は講師ですから、新興市場に上場したようなものでしょうか。まずはそのうち東証2部(准教授)を目指していかねばなりません。


とはいえ、この大学に決まるまで、自分の中では紆余曲折がありました。そもそも、特任教員として2年間過ごした大学に行ったとき、他大学の専任教員の選考を辞退しています。これは採用通知が先に来たから、ということもありましたが、別な考えもありました。それは、旧帝大の出身研究室で恩師のひとりである教授が1年後に定年退官ということもあり、近年中に公募が出るのではないかという読みもあったのです。なぜそんなことを考えていたのか、それは、若い研究者志望の学生たちに少しでも良い環境を提供したい、という思いがありました。研究業界は厳しい業界です。ひたすら自己犠牲と公共への奉仕が求められます。こんな世界にやってくる若い人たちに、せめてもの環境を提供してあげたい、そう思っていたのです。けれど、地方国立大に移って、人格者の先生方に囲まれて、素晴らしい学部学生たちと過ごして、そういったエネルギーは薄まってしまいました。敢えて修羅の道である研究業界に進む人たちに、少しでもいい環境を与えることは、有意義なことでしょう。けれど、それだけでなく、多種多様な人生を歩んでいく学生たちに、自分が研究者として得てきたものを伝えていけたら、それはそれで素晴らしいことなのではないか、と。もう一つ、知り合いの先生から頼まれて、非公式ですが大学院学生の指導をさせていただいたことも自分の認識に影響しました。研究者業界で生きている限りは、若い研究者志望の人たちを助けてあげられる機会はあるんだな、ということを思ったのです。

しかし、そんな思いが変化する時が来ます。詳しくは話しませんが、ある若手研究者の方に共同研究として呼ばれた際に知ってしまった事実が、大きく影響しました。それは、その人が、いわゆる研究者倫理の観点で問題のある行為を行っていたことを知ってしまったのです。人はここまで強欲に、邪悪になれるものなのか、大きな衝撃をうけました。
この業界は、時間が経ち、代替わりするとともに(少なくとも構成員の質は)良くなっていくものとばかり考えていました。でも、もしかするとそうではないのではないか。自分のような人間が積極的に頑張らないといけないのではないか。そんな思いが心の中に残るようになりました。

そんな中、頭をもたげたのは、出身研究室で行われるであろう公募でした。時期としては、(近隣の研究室の人事から)前任者の退職後1年間人事凍結(ポストの補充を遅らせる)が行われていることが明らかだったので、2017年の4月に採用される人事であろうということが想像できました。つまり、2016年の夏に公募があるということです。そして、周辺の人事を見ると、その研究室に併任でいた准教授の先生(当時)は、所属先の教授枠が空く関係から、教授に昇進するのは間違いありませんでした。また助教の先生が一名在籍していました。すると、公募が出るとき、研究室には教授と助教がいる状態となり、募集は准教授か講師ではないかと予測できました。順当にこの職階で募集がかかった場合、だれが通るだろうか。それを考えたとき、先ほどの出来事が自分の脳裏に浮かびました。あの人が通る可能性がある。あの人が通ってしまったら、下に置かれる学生たちは塗炭の苦しみを味わうことになるに違いない、それならば、自分が通った方が、学生は幸せに過ごせるのではないか、そんなことを思ったのです。


2016年1月末、公募が半年後くらいに迫ってきたと思われたころ、授業期間が終わって時間ができた私は、溜まっていた研究成果の論文化に全力を注ぎました。手元の書きかけの原稿を、とにかく出版することに力を注いだのです。その裏に、公募のことが頭にあったのも事実です。ここで自分が頑張ったら救われる若者がいるかもしれない、そんなことも考えました。その年、紀要論文を入れると、共著を含め10本の論文がアクセプトされました。その陰には、過労死の危機もありました。体調不良の中、日帰り出張の後、深夜に学生の論文を直す作業がありました。学生側の事情もあり、その日に直さなければならなかったのです。その時は、カフェイン飲料を取りすぎて作業をしたせいで、深夜、体は大変なことになりました(後から考えるとカフェイン中毒でした)。生まれて初めて、自分の死を目の前に意識した一時でした。歯科医院を開業後まもなく、急に亡くなってしまったいとこの旦那さんの一件を思い出し、今は亡き祖父や、昔飼っていた犬たちのことが頭に浮かびました。親族や、研究室によく遊びに来てくれていた学生のことを思い出し、このまま死んだあと自分を覚えていてくれるひとはいるのだろうか、そんなことを思いました。そして、未刊行の、自分が心血を注いできた研究や論文の原稿のことを思い、生きたい、時間が欲しい、心の底からそう思いました。体が少し落ち着くと、研究室内で死ぬと大学に迷惑がかかることに頭が回り、なんとか家に帰りました。家に帰りついた頃には、体中が震え出し、急性のカフェイン中毒であることがわかりました。その後何とかカフェインの排出につとめ、事なきを得ましたが、思い出したくもない夜の体験となりました。後日病院で検査した結果では、体には問題ないようで、安心しましたが、しばらく体調不良が続いてしまいました。無理はするものではありません。
さて、そんな風に頑張って論文を出し、さぁ、公募の季節だ、となった夏。予想していた通り、出身研究室から公募が出ました。しかし、予想していた准教授・講師クラスではありませんでした。それは、教授での公募でした。…なんと、いろいろ予測していたものの、公募は始まる前に終わってしまいました。そんな中、同時期にいくつか他大学でも公募が出ていました。その中の一つが、現在在籍している大学です。特任教員のポジションを得てからは応募する大学を選ぶようになっていて、あまり気が進まない大学には、分野が適合していても応募しなくなっていました。そんな中、この大学に応募した理由は、自分の専門分野で伝統のある大学であったということがあります。かつては、狭い意味での私の専門分野で、京大と並ぶ日本での2大勢力といえるだけの規模がありました。その伝統はほとんど無くなってしまいましたが、名声というのは職場を選ぶときに大きいものでもあります。自分が籍を置く場所として申し分ないところだと思われました。そういえばポスドク先の研究室選びにも、同じことを考えていた記憶もあります。また、独立して研究できるポジションであるとともに、自分のウリである授業も続けられるということも魅力的でした。さらには、内部の先生方も研究に力を入れていることがわかり、そういう文化のところなら安心していけそうだと考えたこともあります。また、できれば東海道新幹線沿線の大学がいいと思っていましたので、地域的な面でも条件に合っていました。
そうして面接も無事終わり、内々定の連絡をいただいてほっと一息ついたころ、色々なことが頭をもたげます。一度は進もうと思って、開かれなかった道。名前は知っていても、縁もゆかりもない赴任先大学への不安。この上なく過ごしやすい、現任先の環境。そんな中、一本の映画を見ました。「この世界の片隅に」という、戦時中、広島から呉へ嫁いだ、すずさんという女性の物語です。成り行きのようなかたちで呉の北條家に嫁ぎながらも、最後にはその地に根を張って生きていく、たんぽぽのような人生の物語です。新たな大学に赴任するというのは、昔でいえば、どこかの家にお嫁にいくようなものでもあります。主人公のすずさんの生き様に大変感銘を受けた私は、だんだんと決意を固めていくことができました。


赴任後 後日談

さて、『この世界の片隅に』の件です。私にとってこの大学は、すずさんにとって、縁あってやってくることになった北條家(&周作さん)みたいなものでしょう。ここで過ごすうちに、この大学のことを、だんだんと好きになってきました。そんな中、なんと、昨年横から見ていた教授公募は流れたらしく、今度は同じポストが准教授で公募されたのでした(初夏の頃)。すずさんの言葉を借りるなら、こうです。「こうして教授公募が流れてくれて、こんなにそばに公募が出よってに、…うちは、うちは今D物学教室にハラが立って仕方がない……!」(のんさんの声で)
私はといえば、現任校への赴任が決まって以来、目先の論文書きよりも長期的な視野での仕事に移っていました。件の人物が通ってしまわないか、そんなことも思いました。一方で、応募してくれれば筆頭候補になると思われる、研究室の先輩の顔も浮かびました。彼ならば最適任と傍目には思えましたが、その人はすでに私大で専任教員として研究室を率いていました。私大と国立大ではお給料が大きく異なりますから、すでに私大でポジションを得ている人が国立大へ行こうと思ってくれるかどうか、結局どうなったのかは知りません。なにはともあれ、私としては、もう離れた立場から見守るだけの立場です。今後もこの大学の中や、学会といった組織のなかで、やるべきことを果たしていくことになるでしょう。「XX大学はうちの選んだ居場所ですけえ」(のんさんの声で)、と。

大学教員公募戦線(一回戦)を振り返る

さて、多くの若手研究者と同様に、私も長らく大学教員公募戦線に挑みつづけておりました。

公募に応募し始めたのは博士課程の最終学年から。結局院生時代は5か所に応募し、すべて書類落ちでした。知っている方は知っていると思いますが、大学教員の公募は多くが「書類選考」と「面接」の二段階になっています。話に聞くと書類選考はいろいろと応募者の属性を点数化して選考したりするようで、それによって数名を選んで面接、という流れが一般的なようです。書類選考を通過できるようになる(点数化できるような業績を積み上げる)というのがまず公募戦線に参戦した公募戦士第一の関門…のようです。まぁそういったものに関係なく強力な“引き”でポストを決めていく人もなかにはいるようですけれども。

さて、2年前、底辺ポスドクになった私ですが、そもそも学位取得後のポストとしてはいくつか候補がありました。ひとつはR研究所(仮名)のとある研究室でした。そこは院生時代、R研K礎特研(というポスドク)と学振PDを申請して落ちた経緯があり、そこの先生が私のサブテーマに興味を持ってくれていたのです。K礎特研はおそろしく待遇のいいポスドクで、私は面接まで行ったのですがだめでした。結局、正規のポスドクではないがある程度のお給料でどうですか、というお話をいただけておりました。ほかにオーストラリアの関連分野の研究室に話があり、そして最後が実際に所属した研究室です。最終的に実際に所属した研究室に来たのには大別すると4つほど理由がありました。
・一つは昔から交流があり、見知っているという事情がありました。この研究所は修士課程のころに共同利用研究員としてたびたび出かけており、その標本庫で過ごした日々が自分の研究者としての原点でもあったというのは感情的な面で大きいものでした。
・また、歯の研究を行っている自分にとって、古脊椎動物で歯の研究をしていた&しているという伝統は見過ごせないものでした。また、メインにしていた研究対象である分類群を専門にしている先生もいました。
・待遇という面ではよくはなかったのですが、どうせ1年くらいでよい職につくつもりでいた、というのもあります。せいぜい数百万円の差(…というか数百万円の持ち出し…と最初予測された)は人生で一度きりの貴重な時間を過ごす居場所を左右する要素にはなりませんでした。
・最後に、これは大きい要素だったのですが、公募戦線で照準を合わせたポジションにちょうどいい経歴を積めると考えたのがありました。前年に地元の国立大で公募があり、地元でかつ独立した研究室を営めるという非常に魅力的なポジションでした。その公募は応募したのですが書類落ちでした。とはいえ、その公募は募集していた研究分野が多岐にわたっていた点が目立っていました。

…中略… その公募ですが、さまざまな公開情報を総合すると、おそらく翌年に系統学・地学にフォーカスされた募集が出る可能性が高いと考えられました。そこで地学分野をやれるという客観的な経歴を作るという点でも、この研究室を選ぶことはメリットが大きいと踏んだのでした。

これ以外の有力候補であったR研に行かなかった要因として、R研の金満すぎる環境にどうも違和感を持ったことも挙げられます。院生時代は、私財を投じ、研究時間を削り、体を壊すぎりぎり一歩手前まで大学へのご奉公を続けておりました(…と主観的には思っていたのです)。日本は貧しいのだから仕方がないと自分に言い聞かせて…。あそこに行ったら、その日々が無駄に思えてしまう…、そんな感覚にとらわれたのです。…実際にそこで大きな事件も起こりましたし、もしR研にいたらその犯人を遠巻きに眺めるだけで私は憤死していたかもしれません。おさる城に行って本当によかった…。



さて、博士号を取得し、ただのワーキングプアから晴れて高学歴ワーキングプアとなった私は引き続き公募戦線に挑み続けます。PDの1年目は秋口までに5つの公募に応募し、そして書類選考で落ちました。
しかし、あるとき流れが変わります。それは冬、とあるアニメに出会ってからでした。そのアニメとは「魔法少女まどかマギカ」。登場人物はまるで私たち研究者のような苦難な人生を送る魔法少女たちです。その置かれている環境の近さから、私は登場人物たちにこの上なく感情移入してしまったのでした。人生で最もはまった映像作品のひとつといえましょう…。
そしてアニメに影響された私は、簡易書留を送るときに(公募は多くの場合、履歴書や業績リスト、論文の別刷りなどを簡易書留で送付する)あるお祈りを心の中でつぶやくようになったのです。封筒を胸に抱き、心の中で、「頼むよ神様、こんな人生だったんだ、せめて一度くらい、幸せな夢を見させて…」と。これは佐倉杏子(登場人物)の劇中での台詞です。
するとあら不思議、公募に応募すればほぼ確実に書類選考を通過し、面接に呼ばれるようになりました。


面接に呼んでいただいた公募先は以下の通りです。どれも知り合いはいないところで、いわゆるコネの要素がまったくないという状況でした。

地方国立大学某学部(系統学など) 助教または講師
 →これは前述の通り渾身の公募でした。が…、あえなく落ちました。私の面接前日に大学のサークルの同期が同じ大学の別の学部で面接を受けていて、一緒に×大行こうね、みたいに電話したのがとても悲しく思い出されます(笑)。ちなみに友人は採用されました。

私立大学文系学部(教養生物) 助教(任期付)
 →助教が相部屋であることや、講義を担当できないことを知ってテンションが下がり気味でした…。

私立医科大学教養部(生物) 助教(任期付)
 →「(現職名の)×××ってなんですか?」と聞かれて「はい!行き場のないポスドクを収容するポジションです!」と明るくはきはき答えたのが面接のハイライト。

私立女子大学某学部(環境) 講師または准教授
 →分野がすこし違いましたが、なぜか面接に読んでいただきました。残暑の厳しい日でしたが、スーツ姿で来ることをみこして控室で冷房をがんがん効かせてくれていたり、気遣いにあふれたお知らせの文面など、いろいろな意味でよさそうな大学でした。結局落ちました。

地方国立大学教養部 特任教授・特任准教授または特任講師(任期付)
 →なんと面接に交通費を出してくれました。面接の帰り、名古屋の百貨店に寄って何気なく入ったレストランが大学のある町発祥のレストランで、何となく運命を感じた…かもしれません。後日、特任講師で採用内定をいただきました。

私立大学理系学部(生物) 助教(任期付)
 →こちらも面接に交通費を出してくれるというすごい公募でした。しかし、面接の連絡をいただいたときには上の公募の内定が出ていました。問い合わせてみたところ待遇がよく、学校法人は安泰、任期はあれど昇任人事もありえる専任教員ということもあり、すこし悩みましたが、先に内定をいただいた大学に行くことに決め、面接を辞退することにしました。

そのほか、佐倉杏子式の祈りをしたにも関わらず書類選考で落ちた文系私大教養教員(教授・准教授・講師)の2か所があります。


というわけでこの3月で底辺ポスドクを卒業し、4月から一応教員として研究室をいただけることになりましたが、任期もある特任教員ですので、公募戦線が終わったわけではありません。ひとまず一回戦が終わったところです。とはいえ、なんとか一歩前進することができたといえましょう…。

大学教員公募戦線一回戦の戦績をまとめてみますと、
書類落ちが12回
面接に呼ばれたのが6回(うち1回は面接を辞退)
採用されたのが1回
…となります。戦訓としては、必死に仕事を続け、全方位に業績を積み重ねていけば、ある時期になると連続して面接に呼ばれるようになるようです。そうすると1年くらいでどこかに拾ってもらえるかもしれない…、ということのようです。


PS 実際のところ「全方位に」業績を積み重ねるには、かなり頑張らないといけません。休日などは基本的に作ることが難しいですし、寝る時間以外ずっと仕事をする、生命の危険が迫るぎりぎりの水準までは仕事する、というのは当然のことです。しかし、周りの若手研究者を見ていると「1度は倒れる」人が多いようで、そこは気にかかります。入院するだけで命は助かっている人ばかりなのは幸いなことですが、誰しも大きなリスクを背負って仕事をしているということなのでしょう。キャリアが死ぬのを回避するために命を削るのはこういう時代に生まれた以上仕方がないとはいえますが、一方で生きるか死ぬかの水準の見極めも大事です。人生が強制終了してしまっては、その人生の目的ともいえる人生を賭けた仕事を成し遂げることができなくなってしまうわけですから。そこのバランス感覚は常に持っているようにしたいものです。

底辺ポスドクの仕事時間

新年度に入り、現状を把握し、仕事の効率化をはかるため仕事時間を事細かに記録している。4月に入って4週間が過ぎたのでひとまず記録を集計してみた。ちなみに集計は休憩時間のような時間を省き、実際に作業している時間だけを計測しているので、いわゆる労働時間とは別。
 
集計の結果、実作業時間は300時間に届かないくらい、とだけ。飲み会とか多い季節だし、風邪で寝込んだりもしたのでこんなものか。
そのうち重要な部分を抜き出すと、
・教育関連95時間(主に授業準備に83時間)
・論文執筆53時間
・査読30時間
となる。これらの仕事にどれくらいのエネルギーを実際にかけているのかを知りたかった。
 
査読にかけた時間は30時間だけど、その他の項目にはとある雑誌の原稿をチェックして直すお仕事があるので、それを加えると他人の論文をせっせと直すのに自分の論文を書くよりも多くの時間を使っている計算になる。うむむ…。とはいえ、思ったよりも自分の研究に時間が取れているのも事実。週当たり平均13時間は論文書きに時間を割けている。
 
一応ルールを決めて時間配分は行っているのだけど、急な要件が入るなどしてそこまで厳密に運用できているわけではないので、こういう集計をしないと実情はきちんと把握できなかったり。
ちなみに仕事に投入できる時間は(継続的に続けようと思ったら)体力を考えるとこれくらいが限度と思われるので、あとは配分を変えるくらいしかできないかなぁ。いや、花粉症薬の服用がなくなるから睡眠時間減らせるかな…。…とか皮算用しつつ、まぁこの調子なら論文を書く時間も確保できているし、夏まではこのペースを維持していきますか…。
何にせよ、こんな計算や皮算用ができるのも緊急の仕事が次から次へと降ってくるようなことがないからですね。裁量を効かせられる程度の、ほどほどの仕事量で暮らさせてもらっている、というのはありがたいことですよ、本当に。

すこしだけ転進

昔から不定期に続けていたこのブログだけど、4月に身分が変わったことで題名だけ変えたものの、そのままずいぶんご無沙汰してしまった。というわけで私ごとだけど久々の、この題名で初のエントリーを記入してみる。

いまはポスドクというある程度自由の利く生活が始まって半年近く経ったところなのだけど、ここで少しばかり転進をすることになりそうだ。先日、幸運にも非常勤講師の話をいただき、前からずっとしてみたかった教養科目としての生物学を担当させてもらえることになった。それは自分のリソースの一部を研究から教育に振り分ける、ということで、ある意味、戦略の転換を伴う話でもある。

もちろんそれによって研究に割ける時間はかなり減少するだろうし、これから純粋な研究業績で戦っていくつもりなら必ずしも有利には働かない。だが現在周りを見るに、「研究で生きていく」戦略をとっている若手はかなり凄い面々がそろっている。このところ文科省の人やお偉い教授の方々が「優秀な人材が博士課程に進学しなくなっている」みたいなことを言っていたりするが、周りを見るとむしろ逆だ。業績だけをみたら、一昔前なら一気に助教授(准教授)になっていたかもしれないクラスの人材がポスドククラスでごろごろしている。

そんな中で自分の立ち位置を考えてみると、いまいち心もとない。当然ながら分野を限定すれば地球上での第一人者なのだろうし、それは研究者として当たり前のことだけど、すこし分野を広げればどうか。国内でのポスト競争という枠で考えたら、上にいる人間が何人も思いつく。少なくとも、顕在化している業績で他人からそう評価されるのは仕方ない。

院生時代は研究に集中したいという思いばかりが募っていたし、時間さえあれば成果は上がるものと思っていた。ところがポスドクになって5か月、それなりに研究に時間を使える立場になったものの、思っていたほどのスピードで研究が進捗していない。一度リジェクトされたものや投稿寸前の原稿いくつかを完全にペンディングしてメインの大きな研究に資源を集中させていたのも原因なのだけど、それが出れば解決するというものでもないだろう。カメがアキレウスの立っていた位置に到達するときには、たぶんアキレウスはもっと先にいる。そこで教育業績についてもヘッジを広げようという話なのだ。

…こう書くと後ろ向きなようだけど、実のところ教養科目はずっと担当してみたかったのだ。自分がいちばん影響を受けた教員の方々は18-20歳くらいの頃に出会った先生方だったし、学部時代も教養科目がいちばん面白いと感じたものだった。じつのところ教員公募も教養部(みたいなところ)によく応募していたりする。そして、これからお仕事をさせてもらう大学にもささやかながら思い出がある。高校生のころ電車の中で酔っぱらいのおじさんとしばらくご一緒したことがあるのだけど、その方の息子さんがその大学に通っていて、おじさんがそれをとても誇らしげに語っていたのをよく覚えているのだ。…というわけでそのおじさんの信頼に恥じない講義をせねばと、気持ちをあらたにしているところなのだ。

縁あっていまの研究室に

合計6年在籍した研究室を巣立つときが近づいている。この研究室になぜやってきたか、記憶を辿ってみると、学部一回のころのちょっとした縁がきっかけだったように思う。
学部に入ってすぐ、生物学を勉強するサークルに入った。もともとカモノハシが好きだったことから、哺乳類の進化というものに興味をもち、徒然に本や論文を読む日々を過ごしていた。そんな中、大きく自分の興味を引いたのが、理研で研究室を主宰されていたK先生の本だった。その頃は怖いもの知らずだったこともあり、思い立ってK先生にアポを取り、サークルの仲間とともに研究室見学に出かけたのだった。(今でこそ学会などで遭遇すると蛇ににらまれた蛙のようになるのだが…、若さというものは恐ろしい。)
そこでいろいろと研究の話を伺ったり、自分のつまらない思いつきを聞いていただいたのだけど、そこで印象に残った先生の言葉があった。うろ覚えではあるけれど、「(学生が思いついた研究をする上で)ノックアウトマウス作っている研究者を紹介したり、設備のある研究室を紹介することもできるけど、そこまで指導者が面倒見ちゃったら一人前の研究者にはなれないのだ」というような内容の話だった。古典をとても重視されている先生で、おそらく古典の体節さを事あるごとにお話しされているのだけど、なぜか自分の印象に残ったのはその話だった。研究者たるもの、自力で(ネットワークを作るなり何なりして)研究する体制を整えられて初めて一人前ということなのだな、ということは研究者を目指していた自分にとって印象深い教えとなった。そして、その機会にご紹介いただいた、当時(私の今在籍している)研究室で院生をされていたTさんを訪ね、そこから今の研究室との縁が始まったように記憶している。
何気ない発言だったのだろうけど、そのとき受けた教え(?)は、院生時代自分の研究を行う上で大きな指針になったように感じている。何年か前、自分の思いつきを実現するため、手八丁口八丁でなんとか各方面の協力を得て、ある共同研究を始めることができた。そして、それももうすぐ形にできそうなところまでやってきた(…たぶん)。それがPublishされた時、10年越しではあるけれど、あのとき教えていただいたことを実行できたことになるのかなと、そんな思いを抱いている。もちろん、早く形にせねばという焦りと共に。

人に惹かれてこの世界に

2013年は新年早々寝込んでしまい、新年始まって一週間そこそこで去年の累積休日数をオーバーするような事態となり、あまり幸先のよくないスタートとなりました。

しばらくぶりの更新になります。これは本業もありますが、公募戦線に参戦しはじめたため、思いのたけ(?)を公募書類にぶつけることができたのでこういうものを書くエネルギーがたまらなかった、という側面もあります。

近況をご報告しますと、博士論文公聴会も終わり、何とか学位を得られそうな状況となりました。ここまで戦い抜いて、這い上がってくることができたのは、たくさんの人が私を支えてくれたからです。論文の謝辞には書かれていませんが、たくさんの人たちが自分をここまで導いてくれました。

そもそも自分が研究の世界に来た理由として、高校を出てすぐの一年間で、素晴らしい先生方に巡り会えたことが大きかったのではないかと思います。その時は大学受験に失敗し、中期日程で地元の公立大学に滑り込んで一年だけ在籍していたのでした。学部一年生としてモラトリアムを満喫しつつ、知り合った先生の研究室によく遊びに行っていたのでした。今思うと迷惑で申し訳ない話ではありますが、牧歌的な時代だったからこそ許していただけたのかもしれません。遊びに行くと、先生が机に向かい、楔形文字が並んだトレーシングペーパーを使って、なにかよくわからない作業をしていたのでした。内容はよくわかりませんが、ひとりの人が静かに、しかし真剣な眼差しで作業に取り組んでいるのはわかりました。その空気が、自分にとっての、“アカデミックなもの”に初めて触れた、原風景なのでした。いつも歓待してくれた先生は、そういった空気のなかで、口だけ達者な子供の態度を、“矯正”するのではなく、何気なく示唆を与えて、教え導いてくれるような、そんなご指導(?)をして下さったような気がします。そういった経験が、いくつもあったように記憶しています。そんな先生方の人格に触れて、こんな人になりたいな、という思いを抱いたことが、似たような世界へと私が進んできた一番の理由なのかなぁと思います。…思い出は美化されがちなものではありますが、そんな記憶に導かれてきたのは確かなのです。
さて、自分がそんな人に近づいているかといえば、まったくそんなことはないようです。実のところ、生来の生臭な性格もあって、人格も、生きる態度も、あこがれた先生方のようにはなれないな、というのは今になって感じているのです。そのかわり、あんな先生方が生きられる大学というものがこれからも続いていってほしいな、というのを、今の自分のささやかな希望として持っています。

D論がひと段落したとはいえ、ほっとする間もなく、終わることのない戦いの日々は続きそうです。それはたぶん、一生でしょう。まだ築いてきた研究のほんの一部しか世の中に出せていなくて、真摯に見つめなおさないといけないものは限りない。ただただ一歩ずつ、前進していかないとなぁと、思いを新たにするのでありました。

After the funeral

身の丈を知り、足るを知る人だった。足るを知れば辱めを受けない、というのは誰の言葉だったろう。そういう生き方を通した人だった。

質素な家に住み、質素な食事、自ら挿し木で増やした盆栽を楽しみ、川沿いを散歩する。地位や富を追い求めるのではなく、小さきものを慈しみ、愛し愛されることを好んだ。身の丈をよくわかっていたのだろう。

対して自分は身の程を知らず、足るを知らないが故に、いつしか辱めをうけることになるだろう。とはいえ、自分がそういう類の人間だからこそ、彼の生き方は自分が最も尊敬するものであるし、ひとつの憧れであった。