地をはう大学院生→ポスドク→国立大特任教員→私大専任教員

はてなダイアリーから引っ越ししてきました。昔の記録です。

公募戦線2回戦

この4月から私立大学で専任講師になりました。ようやく定年まで居られて、独立して研究できる立場を得ることができました。学位を取って4年で専任講師、国内の業界では最速ペースでしょうか…(業界が少し異なればもっと速い人もいますが…)。これには教育重視のポジションでも研究を続けていけるという、私の研究手法の特性ゆえにできた芸当でもあります。なにはともあれ、やってきたところは伝統のある大学で、なかなか過ごしやすいところです。
基礎科学の研究者が人生を賭けて築いてきた研究とキャリアを評価されてポストを得ることは、一般の人たちにとっての何に相当するでしょうか。企業を起こしたビジネスマンにとってみたら、築き上げてきたビジネスを評価されて、会社が上場するようなものでしょうか。政治家志望の人にとってみたら、苦心の末、ようやく議席を得て国会に初登院するようなものでしょうか。もちろん、学者には上場企業のオーナーさんのような財力もなければ、議員さんのような権力もないですが…。ひとまずは、年齢的にも、学者キャリアのなかでの重要さからいっても、ちょうどそれくらいの段階といっていいでしょう。(研究者を目指すことで背負う人生の諸々の側面、キャリア、金銭面でのリスクを考えると、これらの職業とはかなり似ているようにも思えます)。これで、自分が築いてきた研究をこれからも続けていくことができます。もちろん、過労死したりしなければ、ですが。3月までは独立した立場ではありましたが、任期付きの特任教員でしたから、不安定さがぬぐえませんでした。これでようやく、大きな一歩を歩めました。ビジネスマンに例えた話ですと、今は講師ですから、新興市場に上場したようなものでしょうか。まずはそのうち東証2部(准教授)を目指していかねばなりません。


とはいえ、この大学に決まるまで、自分の中では紆余曲折がありました。そもそも、特任教員として2年間過ごした大学に行ったとき、他大学の専任教員の選考を辞退しています。これは採用通知が先に来たから、ということもありましたが、別な考えもありました。それは、旧帝大の出身研究室で恩師のひとりである教授が1年後に定年退官ということもあり、近年中に公募が出るのではないかという読みもあったのです。なぜそんなことを考えていたのか、それは、若い研究者志望の学生たちに少しでも良い環境を提供したい、という思いがありました。研究業界は厳しい業界です。ひたすら自己犠牲と公共への奉仕が求められます。こんな世界にやってくる若い人たちに、せめてもの環境を提供してあげたい、そう思っていたのです。けれど、地方国立大に移って、人格者の先生方に囲まれて、素晴らしい学部学生たちと過ごして、そういったエネルギーは薄まってしまいました。敢えて修羅の道である研究業界に進む人たちに、少しでもいい環境を与えることは、有意義なことでしょう。けれど、それだけでなく、多種多様な人生を歩んでいく学生たちに、自分が研究者として得てきたものを伝えていけたら、それはそれで素晴らしいことなのではないか、と。もう一つ、知り合いの先生から頼まれて、非公式ですが大学院学生の指導をさせていただいたことも自分の認識に影響しました。研究者業界で生きている限りは、若い研究者志望の人たちを助けてあげられる機会はあるんだな、ということを思ったのです。

しかし、そんな思いが変化する時が来ます。詳しくは話しませんが、ある若手研究者の方に共同研究として呼ばれた際に知ってしまった事実が、大きく影響しました。それは、その人が、いわゆる研究者倫理の観点で問題のある行為を行っていたことを知ってしまったのです。人はここまで強欲に、邪悪になれるものなのか、大きな衝撃をうけました。
この業界は、時間が経ち、代替わりするとともに(少なくとも構成員の質は)良くなっていくものとばかり考えていました。でも、もしかするとそうではないのではないか。自分のような人間が積極的に頑張らないといけないのではないか。そんな思いが心の中に残るようになりました。

そんな中、頭をもたげたのは、出身研究室で行われるであろう公募でした。時期としては、(近隣の研究室の人事から)前任者の退職後1年間人事凍結(ポストの補充を遅らせる)が行われていることが明らかだったので、2017年の4月に採用される人事であろうということが想像できました。つまり、2016年の夏に公募があるということです。そして、周辺の人事を見ると、その研究室に併任でいた准教授の先生(当時)は、所属先の教授枠が空く関係から、教授に昇進するのは間違いありませんでした。また助教の先生が一名在籍していました。すると、公募が出るとき、研究室には教授と助教がいる状態となり、募集は准教授か講師ではないかと予測できました。順当にこの職階で募集がかかった場合、だれが通るだろうか。それを考えたとき、先ほどの出来事が自分の脳裏に浮かびました。あの人が通る可能性がある。あの人が通ってしまったら、下に置かれる学生たちは塗炭の苦しみを味わうことになるに違いない、それならば、自分が通った方が、学生は幸せに過ごせるのではないか、そんなことを思ったのです。


2016年1月末、公募が半年後くらいに迫ってきたと思われたころ、授業期間が終わって時間ができた私は、溜まっていた研究成果の論文化に全力を注ぎました。手元の書きかけの原稿を、とにかく出版することに力を注いだのです。その裏に、公募のことが頭にあったのも事実です。ここで自分が頑張ったら救われる若者がいるかもしれない、そんなことも考えました。その年、紀要論文を入れると、共著を含め10本の論文がアクセプトされました。その陰には、過労死の危機もありました。体調不良の中、日帰り出張の後、深夜に学生の論文を直す作業がありました。学生側の事情もあり、その日に直さなければならなかったのです。その時は、カフェイン飲料を取りすぎて作業をしたせいで、深夜、体は大変なことになりました(後から考えるとカフェイン中毒でした)。生まれて初めて、自分の死を目の前に意識した一時でした。歯科医院を開業後まもなく、急に亡くなってしまったいとこの旦那さんの一件を思い出し、今は亡き祖父や、昔飼っていた犬たちのことが頭に浮かびました。親族や、研究室によく遊びに来てくれていた学生のことを思い出し、このまま死んだあと自分を覚えていてくれるひとはいるのだろうか、そんなことを思いました。そして、未刊行の、自分が心血を注いできた研究や論文の原稿のことを思い、生きたい、時間が欲しい、心の底からそう思いました。体が少し落ち着くと、研究室内で死ぬと大学に迷惑がかかることに頭が回り、なんとか家に帰りました。家に帰りついた頃には、体中が震え出し、急性のカフェイン中毒であることがわかりました。その後何とかカフェインの排出につとめ、事なきを得ましたが、思い出したくもない夜の体験となりました。後日病院で検査した結果では、体には問題ないようで、安心しましたが、しばらく体調不良が続いてしまいました。無理はするものではありません。
さて、そんな風に頑張って論文を出し、さぁ、公募の季節だ、となった夏。予想していた通り、出身研究室から公募が出ました。しかし、予想していた准教授・講師クラスではありませんでした。それは、教授での公募でした。…なんと、いろいろ予測していたものの、公募は始まる前に終わってしまいました。そんな中、同時期にいくつか他大学でも公募が出ていました。その中の一つが、現在在籍している大学です。特任教員のポジションを得てからは応募する大学を選ぶようになっていて、あまり気が進まない大学には、分野が適合していても応募しなくなっていました。そんな中、この大学に応募した理由は、自分の専門分野で伝統のある大学であったということがあります。かつては、狭い意味での私の専門分野で、京大と並ぶ日本での2大勢力といえるだけの規模がありました。その伝統はほとんど無くなってしまいましたが、名声というのは職場を選ぶときに大きいものでもあります。自分が籍を置く場所として申し分ないところだと思われました。そういえばポスドク先の研究室選びにも、同じことを考えていた記憶もあります。また、独立して研究できるポジションであるとともに、自分のウリである授業も続けられるということも魅力的でした。さらには、内部の先生方も研究に力を入れていることがわかり、そういう文化のところなら安心していけそうだと考えたこともあります。また、できれば東海道新幹線沿線の大学がいいと思っていましたので、地域的な面でも条件に合っていました。
そうして面接も無事終わり、内々定の連絡をいただいてほっと一息ついたころ、色々なことが頭をもたげます。一度は進もうと思って、開かれなかった道。名前は知っていても、縁もゆかりもない赴任先大学への不安。この上なく過ごしやすい、現任先の環境。そんな中、一本の映画を見ました。「この世界の片隅に」という、戦時中、広島から呉へ嫁いだ、すずさんという女性の物語です。成り行きのようなかたちで呉の北條家に嫁ぎながらも、最後にはその地に根を張って生きていく、たんぽぽのような人生の物語です。新たな大学に赴任するというのは、昔でいえば、どこかの家にお嫁にいくようなものでもあります。主人公のすずさんの生き様に大変感銘を受けた私は、だんだんと決意を固めていくことができました。


赴任後 後日談

さて、『この世界の片隅に』の件です。私にとってこの大学は、すずさんにとって、縁あってやってくることになった北條家(&周作さん)みたいなものでしょう。ここで過ごすうちに、この大学のことを、だんだんと好きになってきました。そんな中、なんと、昨年横から見ていた教授公募は流れたらしく、今度は同じポストが准教授で公募されたのでした(初夏の頃)。すずさんの言葉を借りるなら、こうです。「こうして教授公募が流れてくれて、こんなにそばに公募が出よってに、…うちは、うちは今D物学教室にハラが立って仕方がない……!」(のんさんの声で)
私はといえば、現任校への赴任が決まって以来、目先の論文書きよりも長期的な視野での仕事に移っていました。件の人物が通ってしまわないか、そんなことも思いました。一方で、応募してくれれば筆頭候補になると思われる、研究室の先輩の顔も浮かびました。彼ならば最適任と傍目には思えましたが、その人はすでに私大で専任教員として研究室を率いていました。私大と国立大ではお給料が大きく異なりますから、すでに私大でポジションを得ている人が国立大へ行こうと思ってくれるかどうか、結局どうなったのかは知りません。なにはともあれ、私としては、もう離れた立場から見守るだけの立場です。今後もこの大学の中や、学会といった組織のなかで、やるべきことを果たしていくことになるでしょう。「XX大学はうちの選んだ居場所ですけえ」(のんさんの声で)、と。