地をはう大学院生→ポスドク→国立大特任教員→私大専任教員

はてなダイアリーから引っ越ししてきました。昔の記録です。

大学教員公募戦線(一回戦)を振り返る

さて、多くの若手研究者と同様に、私も長らく大学教員公募戦線に挑みつづけておりました。

公募に応募し始めたのは博士課程の最終学年から。結局院生時代は5か所に応募し、すべて書類落ちでした。知っている方は知っていると思いますが、大学教員の公募は多くが「書類選考」と「面接」の二段階になっています。話に聞くと書類選考はいろいろと応募者の属性を点数化して選考したりするようで、それによって数名を選んで面接、という流れが一般的なようです。書類選考を通過できるようになる(点数化できるような業績を積み上げる)というのがまず公募戦線に参戦した公募戦士第一の関門…のようです。まぁそういったものに関係なく強力な“引き”でポストを決めていく人もなかにはいるようですけれども。

さて、2年前、底辺ポスドクになった私ですが、そもそも学位取得後のポストとしてはいくつか候補がありました。ひとつはR研究所(仮名)のとある研究室でした。そこは院生時代、R研K礎特研(というポスドク)と学振PDを申請して落ちた経緯があり、そこの先生が私のサブテーマに興味を持ってくれていたのです。K礎特研はおそろしく待遇のいいポスドクで、私は面接まで行ったのですがだめでした。結局、正規のポスドクではないがある程度のお給料でどうですか、というお話をいただけておりました。ほかにオーストラリアの関連分野の研究室に話があり、そして最後が実際に所属した研究室です。最終的に実際に所属した研究室に来たのには大別すると4つほど理由がありました。
・一つは昔から交流があり、見知っているという事情がありました。この研究所は修士課程のころに共同利用研究員としてたびたび出かけており、その標本庫で過ごした日々が自分の研究者としての原点でもあったというのは感情的な面で大きいものでした。
・また、歯の研究を行っている自分にとって、古脊椎動物で歯の研究をしていた&しているという伝統は見過ごせないものでした。また、メインにしていた研究対象である分類群を専門にしている先生もいました。
・待遇という面ではよくはなかったのですが、どうせ1年くらいでよい職につくつもりでいた、というのもあります。せいぜい数百万円の差(…というか数百万円の持ち出し…と最初予測された)は人生で一度きりの貴重な時間を過ごす居場所を左右する要素にはなりませんでした。
・最後に、これは大きい要素だったのですが、公募戦線で照準を合わせたポジションにちょうどいい経歴を積めると考えたのがありました。前年に地元の国立大で公募があり、地元でかつ独立した研究室を営めるという非常に魅力的なポジションでした。その公募は応募したのですが書類落ちでした。とはいえ、その公募は募集していた研究分野が多岐にわたっていた点が目立っていました。

…中略… その公募ですが、さまざまな公開情報を総合すると、おそらく翌年に系統学・地学にフォーカスされた募集が出る可能性が高いと考えられました。そこで地学分野をやれるという客観的な経歴を作るという点でも、この研究室を選ぶことはメリットが大きいと踏んだのでした。

これ以外の有力候補であったR研に行かなかった要因として、R研の金満すぎる環境にどうも違和感を持ったことも挙げられます。院生時代は、私財を投じ、研究時間を削り、体を壊すぎりぎり一歩手前まで大学へのご奉公を続けておりました(…と主観的には思っていたのです)。日本は貧しいのだから仕方がないと自分に言い聞かせて…。あそこに行ったら、その日々が無駄に思えてしまう…、そんな感覚にとらわれたのです。…実際にそこで大きな事件も起こりましたし、もしR研にいたらその犯人を遠巻きに眺めるだけで私は憤死していたかもしれません。おさる城に行って本当によかった…。



さて、博士号を取得し、ただのワーキングプアから晴れて高学歴ワーキングプアとなった私は引き続き公募戦線に挑み続けます。PDの1年目は秋口までに5つの公募に応募し、そして書類選考で落ちました。
しかし、あるとき流れが変わります。それは冬、とあるアニメに出会ってからでした。そのアニメとは「魔法少女まどかマギカ」。登場人物はまるで私たち研究者のような苦難な人生を送る魔法少女たちです。その置かれている環境の近さから、私は登場人物たちにこの上なく感情移入してしまったのでした。人生で最もはまった映像作品のひとつといえましょう…。
そしてアニメに影響された私は、簡易書留を送るときに(公募は多くの場合、履歴書や業績リスト、論文の別刷りなどを簡易書留で送付する)あるお祈りを心の中でつぶやくようになったのです。封筒を胸に抱き、心の中で、「頼むよ神様、こんな人生だったんだ、せめて一度くらい、幸せな夢を見させて…」と。これは佐倉杏子(登場人物)の劇中での台詞です。
するとあら不思議、公募に応募すればほぼ確実に書類選考を通過し、面接に呼ばれるようになりました。


面接に呼んでいただいた公募先は以下の通りです。どれも知り合いはいないところで、いわゆるコネの要素がまったくないという状況でした。

地方国立大学某学部(系統学など) 助教または講師
 →これは前述の通り渾身の公募でした。が…、あえなく落ちました。私の面接前日に大学のサークルの同期が同じ大学の別の学部で面接を受けていて、一緒に×大行こうね、みたいに電話したのがとても悲しく思い出されます(笑)。ちなみに友人は採用されました。

私立大学文系学部(教養生物) 助教(任期付)
 →助教が相部屋であることや、講義を担当できないことを知ってテンションが下がり気味でした…。

私立医科大学教養部(生物) 助教(任期付)
 →「(現職名の)×××ってなんですか?」と聞かれて「はい!行き場のないポスドクを収容するポジションです!」と明るくはきはき答えたのが面接のハイライト。

私立女子大学某学部(環境) 講師または准教授
 →分野がすこし違いましたが、なぜか面接に読んでいただきました。残暑の厳しい日でしたが、スーツ姿で来ることをみこして控室で冷房をがんがん効かせてくれていたり、気遣いにあふれたお知らせの文面など、いろいろな意味でよさそうな大学でした。結局落ちました。

地方国立大学教養部 特任教授・特任准教授または特任講師(任期付)
 →なんと面接に交通費を出してくれました。面接の帰り、名古屋の百貨店に寄って何気なく入ったレストランが大学のある町発祥のレストランで、何となく運命を感じた…かもしれません。後日、特任講師で採用内定をいただきました。

私立大学理系学部(生物) 助教(任期付)
 →こちらも面接に交通費を出してくれるというすごい公募でした。しかし、面接の連絡をいただいたときには上の公募の内定が出ていました。問い合わせてみたところ待遇がよく、学校法人は安泰、任期はあれど昇任人事もありえる専任教員ということもあり、すこし悩みましたが、先に内定をいただいた大学に行くことに決め、面接を辞退することにしました。

そのほか、佐倉杏子式の祈りをしたにも関わらず書類選考で落ちた文系私大教養教員(教授・准教授・講師)の2か所があります。


というわけでこの3月で底辺ポスドクを卒業し、4月から一応教員として研究室をいただけることになりましたが、任期もある特任教員ですので、公募戦線が終わったわけではありません。ひとまず一回戦が終わったところです。とはいえ、なんとか一歩前進することができたといえましょう…。

大学教員公募戦線一回戦の戦績をまとめてみますと、
書類落ちが12回
面接に呼ばれたのが6回(うち1回は面接を辞退)
採用されたのが1回
…となります。戦訓としては、必死に仕事を続け、全方位に業績を積み重ねていけば、ある時期になると連続して面接に呼ばれるようになるようです。そうすると1年くらいでどこかに拾ってもらえるかもしれない…、ということのようです。


PS 実際のところ「全方位に」業績を積み重ねるには、かなり頑張らないといけません。休日などは基本的に作ることが難しいですし、寝る時間以外ずっと仕事をする、生命の危険が迫るぎりぎりの水準までは仕事する、というのは当然のことです。しかし、周りの若手研究者を見ていると「1度は倒れる」人が多いようで、そこは気にかかります。入院するだけで命は助かっている人ばかりなのは幸いなことですが、誰しも大きなリスクを背負って仕事をしているということなのでしょう。キャリアが死ぬのを回避するために命を削るのはこういう時代に生まれた以上仕方がないとはいえますが、一方で生きるか死ぬかの水準の見極めも大事です。人生が強制終了してしまっては、その人生の目的ともいえる人生を賭けた仕事を成し遂げることができなくなってしまうわけですから。そこのバランス感覚は常に持っているようにしたいものです。