地をはう大学院生→ポスドク→国立大特任教員→私大専任教員

はてなダイアリーから引っ越ししてきました。昔の記録です。

テロリズム(含エコテロリズム・南氷洋の捕鯨)

テロリストはあまり居てほしくない存在。だけど、直接掃討するだけじゃなく、彼らが存在できる基盤というものを考えるべきだと思うのだ。
アルカイダシーシェパードといった団体は、なんだかんだで広く支援者がいて、活動資金を集められるから存続できる。
ある意味、多くの行動できない人たちの意思を代表しているからこそ、続いているのだ。

実際イスラム圏では米国といった国への恨みは強い。中央アジア某国によく調査に行く人の話だと、普通の村人だって今度アメリカ軍が来たら銃で撃ってやりたい、みたいなことを日常会話として話すそうだ。まあ半分冗談なんだろうけど。江戸時代の島津家の年始の挨拶みたいなものか。

私自身も、チュニジアで、おじいさんに自衛隊イラク派遣についてお叱りを受けたことがある。ソフトムスリムと言われるような、それほど厳しくないイスラムの国で、だ。ホテルの食堂だった。ちょっと変わった人だったけど、米国に対しても日本に対してもかなり怒っていた。仕方ないから、神のご加護を、みたいな定型句で逃げたんだけど。なぜかその光景を見ていた食堂のおじちゃんに気に入られるという、妙な方向に発展したが。

テロリズムにはそれを支持する世論という根っこがある。武力で抑えるのもひとつの方法だけど、テロ以外のはけ口を作っていくことも大切なんじゃないかと思ったり。
 
 
オーストラリアの反捕鯨世論なんかも根が深くて、
・そもそも戦前日本が南氷洋でやりたい放題捕鯨していた前科がある
・第二次大戦、オーストラリアにとって初の本土襲撃(海空だけだけど)、恐怖の末の勝利→すぐまた日本の捕鯨船団が南氷洋にあらわるという不快感
・文化、宗教、人種の問題
など、色々あるだろう。中でも、歴史的な経緯というのはかなり大きいのではないかと思う。

オーストラリアなんてのはANZAC(第一次大戦のオーストラリア・ニュージーランド軍)の戦没者追悼記念碑がそこらじゅうの町や村の中心広場に大きく立っているような国。
日本だったら、日露戦争戦没者の碑など、古い戦争の記憶は、第二次大戦の惨禍にかくれてそこまで目立たない。それだけ平和ボケ、というと語弊があるが、唯一直接攻撃を受けたのが日本との戦争だった、という国だ。
オーストラリアからの留学生の人に、(戦争の話になって)ダーウィン空襲の話をしたら、そのことを知っていた日本人は私が始めてだったらしく、いたく感心された。 日本人にとって小さな一方面の戦局だったとしても、現地の人にとっては重大な歴史ということもある。

"捕鯨文化"と"愛鯨文化"が対立する中で、向こうの裏庭のような海域での捕鯨は、面子と外交交渉の道具以上の意味はないんじゃないのかなぁ、と思ってみたり。そもそも日本で伝統的と言えるのは、沿岸捕鯨までなんだし。
理解を得るのが本当に難しい、となれば、科学的根拠があったとしても、ある程度の譲歩は必要だろう。
ただ、シーシェパードに手柄顔をさせたくはないですが…。